Ba.&Vo.穂高亜希子(ほたか・あきこ)、Gt.松尾翔平(まつお・しょうへい)、Dr.吉川賢治(よしかわ・けんじ)からなるスリーピースバンド、ほたるたち。それぞれのソロ活動や別のバンドでのイベント出演を通じて交流を深めた彼らは、2016年10月ごろに結集。コロナ禍による活動休止を挟みながらも、フェスへの出演や企画イベントなどを精力的に行い、25年夏には中国・北京でのライブも成功を収めた。彼らが紡いできた物語とは。
目次
もっと自由になりたかった
福岡県出身の穂高亜希子は、物心ついた時から音楽に親しんでいた。
「子ども向けの教育レコードに収録されていたクラシック音楽を、繰り返し聴いていました。私は昔から『これ!』って思ったら、ずっと続けてしまう性質なんです」
5歳からピアノを習い始めたが、楽譜を追うことが苦手で、あまり上達しなかった。高校生になると、レディオヘッドやビョークに憧れ、録画したライブ映像や音楽番組を何度も見た。
「彼らのことは雲の上の存在というか、カリスマというか、自分とはまるで違う人間だと思っていました。だから『私も曲を作ってみよう』とかって気持ちにはなりませんでした」
転機となったのは、同級生がやっているバンドのライブに足を運んだことだ。
「友達が、すごく輝いて見えたんです。普段、クラスにいる時は普通の人間なのに、ライブでは、まるで別人のようで。私は心から友達を尊敬して、応援するようになって、在学中も卒業してからも、毎回ライブを見に行きました。そしたらある日、バンドのベーシストが脱退して、『代わりに弾かないか?』と声をかけてもらいました」
こうして18歳からベースを始めた穂高だったが、当時は、バンドメンバーから言われるがままに演奏していただけだった。
「自分なりに一生懸命やっていました。でも、やらされている感が強くて、楽しくありませんでした。そもそも、ベースっていう楽器の役割すら分かっていなかったんです」
ステージに立つことも苦痛だった。
「どうにも恥ずかしくて、好きになれなくて、『音楽で自分を表現する』って次元とは程遠かったです。そんな意識だったから、メンバーから怒られることも多くて。結局、電話で『辞める』って伝えて、逃げちゃいました」
その経験は、彼女の心に大きな影を落とした。
「自分はダメな存在だと感じて、対人恐怖症になってしまいました」
そんな穂高を癒したのは、70~80年代の日本のアンダーグラウンドミュージックだった。
「ちょうど町田康さんが芥川賞をとった時期で、彼が昔やっていたINUというバンドに興味を持ったことがきっかけで、そこからその周囲の音楽を沢山調べて聴きまくりました。それらの音楽は、カリスマ的なものではなく、自分と近い感じがしました。その空気に親近感が湧いたというか、好きになったんです。『私、こういう音楽がやりたい!』と思ったら、そのことしか考えられなくなりました」
思いつめた彼女は上京を決意した。
「東京に行けば、『売れたい』とか『メジャーになりたい』とか以外の、もっと自由な音楽があるんじゃないか。もっと色んな人に会えるんじゃないかと思いました」
2002年に上京し、03年から穂高亜希子名義で音楽活動を開始。オリジナル曲を作り、ピアノやアコースティックギターでの弾き語りを披露するようになった。
「ただ、さっきも話したように、ずっと対人恐怖症だったんです。自分の音楽を良いと言ってくれた相手とだけは仲良くなれたし、知り合いのバンドに誘われてベースを弾いたりするようにもなったけど、根本的には自分の世界に引きこもったままでした」
出会うべくして出会った仲間たち
東京生まれ、インドネシア育ちの松尾翔平の音楽の原点は、幼少期にカラオケで触れたJ-POPだ。
「向こうにいたころ、親たちが夜な夜な集まって、カラオケパーティをしていたんです。僕は自分から積極的に歌いはしませんでしたが、隅っこで興味のないふりをしつつ、実は彼らの歌を聴いていました。ユーミンとか、スピッツとか」
中学1年生の時に帰国すると、流行りのロックなどを聴き始めた。
「中3の時にブランキー・ジェット・シティを知って、『今まで聴いてきた音楽と明らかに違うぞ』と感じました。スリリングなリスナー体験でしたね。そこからCD屋に通って、色んな音楽を探すようになりました。洋楽なども好きになっていきました」
楽器の演奏にも興味を持った。
「父のガットギターを借りて弾いたり、エレキギターを買ったりしました。本当はバンドもやりたかったんですけど、メンバーを集められませんでした」
大学生になり、初めて所属した軽音サークルでは挫折を味わった。
「音楽が好きな人ばかり集まっているはずなのに、全然溶け込めなかったんです。結局、インターネットを通じて知り合った人とアングラな音楽の話で盛り上がり、バンドを組みました」
楽曲を演奏するというよりも、ただ、音を鳴らすことを楽しんでいた。
「なんとなく独学で触っていただけで、コードはもちろんギターソロも弾けず、ほぼノイズでしたね。僕はそういう音楽が好きだったんです。ハーフ・ジャパニーズってバンドが『ギターのコードを知らなくても、アンプとコードが繋がっていれば音は出るから、いいんだ』というようなことを言っていて、そのスタンスに共感しながら活動を始めました」
大学卒業後は一般企業に就職しつつ、前衛的な音楽活動を続けた。
「ほとんど上達しない状態で、何年かやりました。楽曲志向じゃない音楽には発散する面白さがあります。でも何かを積み重ねたり、ものを生み出して残すことへの憧れがあって、昔好きだった歌ありきのロックバンドがやりたくなりました」
その後、うたものバンド・ハカラズモ!にリードギターとして加入。メンバーが入れ替わり、新しくやってきたドラマーが吉川だった。
滋賀県出身の吉川賢治がドラムを始めたのは、高校生のころだ。
「中学のころは卓球部でしたが、高校でロックを聴くのにハマって、リサイクルショップで中古CDを漁るのが趣味になりました」
大学生時代は、バンド活動を楽しんだ。
「軽音サークルに入って、友達と暗い感じのバンドを組んで、ポストパンクっぽい曲を作っていました。神戸のHELLUVA LOUNGEってライブハウスに出たりしていましたね」
卒業後は一般企業に就職し、いったん音楽から離れた。しかし東京への転勤を機に、再び「バンドをやりたい」と思うようになった。
「インターネットでメンバー募集を探して、見つけたのがハカラズモ!でした」
加入後しばらくして、ハカラズモ!の活動のペースが落ち着いてきたころ、音楽仲間の山口やまぐが主宰するバンドに誘われた。
「『山口やまぐと地獄少年』という名前のバンドで、穂高さんもベースとして参加していました。穂高さんのことは一方的に知っていましたが、一緒に演奏することになるとは思いませんでしたね」
二人は15年8月、上野ドゥービーズで開催されたライブイベント『ブラックナードフェス vol.1』にて、同じバンドのメンバーとしてステージに立った。
一方の松尾と穂高も、それぞれの音楽活動を通じて出会っていた。
「僕はハカラズモ!に入った後、自分でも曲を作って歌いたくなって、別のバンドを組みました。そこでCDを出したり、イベントを企画していく中で、穂高さんと知り合ったんです」
穂高は、松尾が制作したハカラズモ!のPVを見て、感銘を受けた。
「彼が家庭用カメラで撮って、編集していて、すごくいいなと思って。『私のMVも撮ってほしい』とお願いしました」
松尾が撮影した、穂高のオリジナル曲『あの頃のこと』のMusic Videoは、16年1月25日にYouTubeで公開されている。
ほたるたちの歩み
MVの制作をきっかけに松尾と仲良くなった穂高は、記念にと、自身のライブでのギターサポートを彼に依頼した。
「あまり気負わずに引き受けた記憶があります。僕はそれまで、自分から誰かに声をかけて活動することがほとんどでした。人から誘ってもらうことはあまりなかったので、ワクワクしましたね」
2016年10月の『ブラックナードフェス vol.2』に2人で出演した後、「ドラムが入ったら、さらに良くなるのでは」と考えた穂高は、吉川に声をかけた。
「僕は『面白そうだな』くらいの気持ちでスタジオへ行きました。『一回、三人でやってみるか』くらいのノリだったので、まさか、そこから9年も続くとは思いませんでした」
バンド名を考えたのは、穂高だった。
「当時、ソロのアーティストがバンドをやる時は『穂高亜希子 with ○○』や『穂高亜希子と○○たち』といった名前を付けるのが主流でした。でも、バックバンドみたいになるのは嫌だったので、ちゃんと名前をつけたくて。穂高の『ほた』と『ほたる』をかけて、省略した感じにしました」
蛍というコンセプトは、三人の性格からイメージしたものだ。
「私たちは三人とも、主張が強いタイプじゃないんです。ぼんやり光ってる感じ。そこから、蛍を連想しました。小さくて弱いけど、ちゃんと周りを照らしている、綺麗な光。そういう音楽をみんなでやりたいなって思いました」
松尾は「最初にスタジオへ入った時、壮大な音の景色が見えました」と語る。
「何の前準備もなく『朝焼けの夢』って曲を演奏してみたら、メロディが降ってきて、気づけばギターソロを弾いていました。三人でやっているとは思えないほどのスケールで、高揚感がありました」
吉川も頷く。
「僕も手応えがありましたね。何時間かスタジオに入っていて、後半は『なんかいけるかも』って瞬間が何度もあって、すごくよかったです」
穂高は、意図せずして、ソロとは全く違う歌唱になっていた。
「本当は、バンドでもアコギを持つつもりだったんです。でも、スタジオで『ベース持ってみたら』と言われて、試しに弾いてみたら、急にロックになって。楽しくて、『これで行こう!』ってなりました。ソロではずっと静かな弾き語りをやっていたので『お客さんはびっくりするかな? 引かれちゃうかな?』と、どきどきする部分もありましたが」
17年2月、大久保にあるライブハウス・ひかりのうまにて、初ライブを敢行。
「縁があって、友達の企画に出演させてもらいました。それからは『何でもいいから呼んでください』みたいな、新人バンドの気持ちで、ちょこちょこブッキングライブに出させてもらいながら、練習を重ねました」
18年10月24日、1st album『光』をリリース。穂高がソロで歌って来た楽曲を、バンドアレンジして収録した。発売後はタワーレコード新宿の店頭にポップが展開され、disk union dues新宿でのミニライブとサイン会を行った。
「音楽仲間と一緒にレコ発ツアーをして、京都、神戸、大阪、名古屋を回りました。ファイナルは11月30日、渋谷ロフトヘヴンでのライブでした」
その後も精力的な活動を続けたが、20年にコロナ禍が襲来。一時休止を余儀なくされた。
「決まっていた企画に幾つか出た以外は、1年ちょっとライブ活動を休んで、メンバーと会ってもいませんでした。それが逆によかったというか、活動を再開した時、何故かみんな、すごくよくなっていたんですよ」
穂高が振り返ると、松尾たちも同意する。
「コロナ禍の間、穂高さんがソロでやっている配信ライブを見て、『新しい曲ができてるな』ってチェックしたりしていました」
22年初頭、情勢を見ながら再結集し、2nd album『虹の向こう』のレコーディングを開始。同年10月26日にリリースした。
「2ndには、ほたるたちを結成してから作った楽曲を中心に収録しました。特に『ほたる』は、まさに私たちのテーマ曲という感じで、完成してからずっとライブのセットリストに入っています」
11月9日に下北沢440で企画していた『〜ほたるたち 2nd album「虹の向こう」発売記念ライブ第一弾〜 ほたるたち/大友良英』は、残念ながら大友氏の体調不良によりワンマンライブとなってしまったが、見事にやり遂げた。
12月3日には発売記念ライブ第二弾の『ほたるたち/コルネッツ』を渋谷La.mamaで、翌年1月22日には第三弾『ほたるたち/曽我部恵一』を渋谷7thFLOORにて開催。いずれも好評を博した。
さらに2月12日、八広地域プラザ 吾嬬の里で行われた『ブラックナードフェス vol.5』へ出演したことが転機になる。
「演奏している最中から、お客さんの反応が違ったんです。終演後も、SNSで動画や写真を共有してくれた人がたくさんいて、とある方が号泣する様子がバズって、さらに新しい人が私たちを知ってくれて。そこからライブの動員数が増えたり、急に知らないバンドからイベントのお誘いを受けるようになったりしました」
穂高は、しみじみと振り返る。
「そのころ、私生活でものすごく落ち込むことがあったんです。なんとか立ち上がろうとする自分のパワーが、皆さんに伝わったのかな。ライブの後は、お酒を飲んでいないのに酔っぱらったような状態になって、2日くらい治りませんでした」
以降、ライブのペースを増やし、企画イベントも活発に行うようになった。23年12月21日には、下北沢LIVE HAUSにてワンマンライブ『星からの手紙』を開催している。
「それまでのワンマンはリスクを少なくというか、よく出演していて、お金もかからない場所でやっていました。私たちはわりと保守的だし、お客さんを呼べる自信もなかったんです。『星からの手紙』の時に初めて、あまり出演したことのない、大きめのライブハウスを借りました。かなり勇気を出して、勝負をしました」
当日に向けて吉川はグッズ、松尾はZINEを制作し、穂高はSNSを毎日更新した。
「ZINEの表紙を描いてくれたアライタイツさんは、ブラックナードフェスで私たちのライブを見てくれて、号泣する姿がSNSで話題になった方なんです。そこから仲良くなって、このイラストを描いてもらうまでになりました」
24年8月13日には、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』の音楽を担当したことなどでも知られる大友良英氏とコラボレーションしたライブを開催。
「世界的に有名なギタリストの方と一緒にやるっていう、自分たちにとっては大きな挑戦でした。また一つ、壁を破れた感じがありましたね。喜びの日でした」
25年は、活動の舞台を世界にも広げた。
「3月ごろに、中国の男の子から『インタビューしたい』って連絡があったんです。どうやらインターネットで私たちのことを知ってくれたらしくて、来日してライブにも遊びに来てくれました。彼から『中国でライブしてほしいから呼びますね』って言われて、『まぁ社交辞令だろうし、実現しても数年後かな』と思っていたら、一か月ぐらいして『この夏に来ませんか』とメールが来ました」
それは、穂高が7年ほど働いていた会社を辞めた日の出来事だった。
「なんでしょうね。私がプライベートで落ち込んでいる時に、新しい扉が開くんでしょうか。ともかく『有難い話だし、断る理由ないな』と引き受けました」
25年8月23日、北京のOMNI Clubで開催されたライブには約100名が集まり、大成功を収めた。
「若者向けのライブハウスというか、フラットなフロアのクラブっぽい場所で、お客さんにぐるっと囲まれて歌う形でした。私たちが何度か出演しているブラックナードフェスと、少し似た雰囲気でしたね」
会場は熱気に満ち、演奏に合わせて口ずさむ観客もいた。
「私たちのことをよく知らなくて、ただ日本の音楽に興味があるとかの理由で来てくれた人も多かったと思います。でも、歓迎されている感じがすごくて。日本で全然知らない人の前でやるときは、お互い警戒しているというか『はじめまして』って感じだけど、中国は違いました。アンコールの最後に、客席から『ありがとう!』って声が聞こえてきて、喜んでくれている感じが伝わってきて、嬉しかったですね。スターになった気分でした」
生きていくために必要な音楽を続けたい
現在は、月に2~3本のライブを行いながら、音源の制作に取り組んでいる。
「今年中か、来年の頭にはシングルを出す予定です。11月には大友さんとライブをやるし、来年1月9日には23年以来のワンマンをやろうと思っています。また前くらい頑張ろうかな」
再び中国でライブを行う可能性もある。
「北京へ行ったとき、中国のSNSで『上海にも来てほしい』といったコメントをいただきました。もし次があったら、幾つかの都市で演奏できたらいいな。夢がふくらみますね」

25年11月19日に発売される『パラダイス・ガラージ30周年記念「移動遊園地~パラダイス・ガラージ/豊田道倫トリビュート」』への参加も決まっている。
5年後、10年後の展望について尋ねると、彼らは顔を見合わせた。
「私たちってほんとに、未来のイメージとか、欲がないんです。その時その時、やれることを一つずつ積み重ねてきて、気づいたら今日ここに立っているって感じで。あまり自信があるタイプでもないから、思ったより大きくなれていることに驚いてさえいます。ずっと驚いてるし、これからも驚き続けるんじゃないかな」
何が起きるか分からないことが楽しい、と三人は口をそろえる。
松尾にとって音楽とは、生活に必要不可欠なものだ。
「僕は『音楽を続けてこうなりたい。こんなアーティストでありたい』っていうのが、正直かなり弱いタイプの人間です。でも、音楽がないと、人生が成り立たない。仕事は辞めたことがあるけど、音楽はずっと続けています。音楽を続けていくために生活の中で『音楽っていいな』と思える隙間を持ち続けられたら良いなと思います。そして活動自体に飽きないように、今までやってきたことを少しずつ更新して、過去の自分を超えていきたい、というのはありますね」
吉川も、音楽を演奏する日々を続けたいと考えている。
「松尾君に近いかもしれません。僕はバンドを続けるごとに、日に日に演奏することが楽しいと思うようになってきています。音楽を演奏することって素晴らしいし、自分にとって大事なことです。もっともっと楽しく、自由にできるようになりたいし、長く続けられるようにやっていきたいです」
穂高は「中国でライブしたことが驚きの天井だろうと思ったんですけど、色んな人が『まだあるよ』と言ってくれるから、面白いです」と笑う。
「私は最初から諦めが強くて、『自分を分かってもらえることなんてない』と思いながら生きてきました。なのに気づいたらお客さんとか、音楽仲間が増えて行ってて、『良いと思ってもらえるんだ』って。『こんなに伝わるものなんだな』って思えてきたし、『これからもっと広がるかもしれない』と期待できることが、一番、想定外の喜びかもしれません」
長年、対人恐怖症に悩まされてきた彼女だが、今はすっかり元気になっている。
「20代のころは本当にひどくて、私を見に来てくれたお客さんすら怖かったんです。でも、音楽で知り合った人と心を通わせることで少しずつ治っていって、ここ数年、やっと人が怖くなくなりました。音楽が無かったら、どうなっていたかなって感じがあります」
彼女はずっと、今を生きることで精いっぱいだった。
「先のことなんて考えられないくらい大変で、欲を持てないくらいギリギリで、音楽と一緒になんとか生きてきました。最近、やっと視界が開けてきているので、バンドの力ってすごいです。一人では辿り着けないところまで行けるんじゃないかと思える。売れるとか売れないとかじゃなくて、喜びがもっと増えて、広がっていったら嬉しいですね」
純粋に音楽を愛し、愛されてきた彼らの行く末を見守りたい。
文:紅葉
INFORMATION

2025.11.19(水) 開場 19:00 / 開演 19:30
下北沢440&ほたるたちpresents
『ほたるたちwith大友良英special band set × oono yuki band』
[会場] 下北沢440(世田谷区代沢5-29-15)
[料金] 予約 3,500円+d / 当日 4,000円+d
[詳細 / 購入] https://eplus.jp/sf/detail/4385730001-P0030001

2026.1.9(金) 開場 19:00 / 開演 19:30
ほたるたちnew year presents
「ほたるたちワンマン2026『宇宙』」
[出演] ほたるたち
special guest:こまどり社(sax,獅子舞)
special DJ:森本在臣
[会場] 渋谷La. mama(東京都渋谷区道玄坂1-15-3)
[料金] 予約 3,000円+d / 当日 3,500円+d
[詳細 / 購入] Googleフォームからご予約ください


