プロドラマーとして、サポート演奏や音楽講師など、多方面で活躍している阿部実(あべ・みのる)。高校生時代にドラムと出会った彼は、音楽学校で腕を磨き、様々な現場で演奏してきた。さらにドラム講師として20年間で延べ数百人を指導し、2022年にはA.B.M.Drums Schoolを開業。そんな彼が現在のスタイルに辿り着くまでの道のりとは。
ドラムとの出会い
新潟県出身の阿部実は、ごく普通の子どもとして育った。
「学校へ行って、ご飯を食べて遊んで、特に夢を持つこともなく過ごしていました。面白い性格だったわけでも、クラスで人気があったわけでも、取り立てて成績が良かったわけでもありません。クラス内カーストでは(笑)、平均よりちょっと下くらいの子どもだったと思います」
小学校6年生ごろにCHAGE and ASKAを知り、ほぼ全てのアルバムを聴きこんだ。その後Mr.Childrenにハマり、他のロックバンドや当時流行っていたビジュアル系の音楽も聴くようになった。
「テレビの音楽ランキング番組などを見ていたので、日本の流行には詳しかったですが、洋楽を聴き始めたのは大人になってからです」
中学校ではバスケ部に入った。
「スラムダンク世代だったんです。3年間なんとか続けましたが、レギュラーメンバーにはなれませんでした。友達がいたから部活自体は楽しかったんですけどね。サッカー部から途中編入した同級生や、後輩がレギュラーになったこともあって、悔しかったです」
当時は無自覚だったが、心のどこかに「何者かへの憧れ」があったという。
「『勉強ができる子』とか『バスケができる子』とか。そういうキャラクターというか、自分の役目が欲しいと思っていたのかもしれません」

高校では、友人に誘われるまま吹奏楽部に所属した。
「本当に何も知らないところからのスタートでした。『パーカッションやろうぜ』『なにそれ?』『打楽器だよ』なんて会話をしたくらいです。でも先生や先輩から基礎を教わって、練習を重ねるうちに、面白いくらい上達していきました。中学生時代のバスケとは違って、『昨日よりも上手くなっている』って手応えを感じられたんです」
その誘ってくれた友人が部活を辞めてしまった後も、阿部は楽器演奏にのめりこんでいった。
「吹奏楽部では、クラシックだけじゃなくてポップスの曲もやるので、僕も2年生ごろからドラムを叩くようになりました」
転機となったのは、3年生の文化祭だった。クラスメイトに声をかけられて、バンド企画のステージへ出演したのだ。
「友達と一緒に、THE YELLOW MONKEYや黒夢などの曲を演奏しました。そこで初めて『中学生のころからバンドやってました』みたいな人達と関わったんです。彼らと自分を比べて、『自分は結構ドラムが上手いのかも』と感じました。多分、吹奏楽で基礎をみっちりやったのもあって。喋ったことのない他クラスのドラマーに『ドラム教えてもらえませんか』なんて言われたりして。それもあって調子に乗りました(笑)」
もっとドラムを勉強したいと考えるようになった彼は、高校卒業後、音楽学校へ通うことを決めた。
音楽学校で学び、プロの道へ
いよいよ上京し、音楽学校メーザー・ハウスのドラムス科へ通い始めた阿部は、すぐに現実の壁にぶつかった。
「まあ、井の中の蛙でした。新潟の普通の高校の、狭いコミュニティの中で、ちょっと上手かっただけ。全国から『ドラムがやりたい!』と覚悟を決めてきた人たちの中に入ったら、大したことなかったんです」
身の程を知った彼は、練習に励んだ。
「漠然と『ゆくゆくはプロのミュージシャンになりたい』と思っていました。そのためにまずは自分のクラスの10人の中で上位になって、『阿部くんって上手いよね』と言ってもらえる存在になろう。そうやって一つずつ小さな目標を達成していこうと思いました」
ともに切磋琢磨した同級生のなかには、現在も音楽シーンで活躍する人々がいる。
「打首獄門同好会の河本あす香ちゃんとかは、同じ基礎練習のクラスに通っていました。ギターボーカルの大澤淳史くんとは、バンドの授業が一緒になって、ハードロックやヘビーメタルを演奏していました。あのバンドは、僕が20代のころからずっとやっていて、本当にすごいなぁと思います」
阿部自身も、幾つかのバンドに所属していた。
「『このバンドで絶対プロになろう』ってほど熱くはなかったけど、気の合う仲間と組んで、ライブハウスで演奏していました。ただ、アマチュアバンドを続けるのって難しいんですよね。メンバーが変わったり、解散したりを繰り返していました」

プロの道へ進むチャンスが巡ってきたのは、19歳の時だ。
「Full Tilt Boogiesっていう、既にメジャーデビューの決まっているバンドが、サポートドラマーを探していたんです。学校からオーディションの連絡があって、僕を含めて6人くらい参加しました」
オーディションを受けるに当たって、思うように練習できなかったことが、逆に良い結果をもたらした。
「当時の僕は、ものすごく暴れまくるというか、どんどん色んなフレーズを入れていく演奏スタイルでした。楽曲の盛り上がりに合わせて、手数や音数を増やしていたんです。でも、そのオーディションの前は、どうしても練習する時間がとれなくて、いつものような演奏をするのは難しいと感じていました」
焦っていた時、学校の先生に教わった『本番だけ頑張って、難しいことをしても失敗する。その時できる最低限を、きっちりやることが大事だ』という言葉を思い出した。
「オーディションでは、いつものスタイルを封印して、余計なことをせずに演奏しました。後日、プロデューサーの方から『阿部君を選んだのは、一番シンプルに演奏していたからだ』と教えてもらいました。もし僕が練習に練習を重ねて、フルパワーの全部乗せみたいな演奏をしていたら、不合格になっていたってことです。不思議な話ですが、これもご縁だと思います」
紆余曲折を経て、自分のスタイルを確立
こうして2000年ごろから、ドラマーとしてプロのステージで演奏するようになったが、順風満帆とはいかなかった。
「Full Tilt Boogiesは、デビューから2、3年ほど経って、メジャー契約が切れてしまいました。売れるかどうかって、自分たちの力ではどうしようもない部分があるので、仕方ないですね」
サポートメンバーだった阿部も、自動的に仕事がなくなってしまった。
「20代前半は、バイトをしながらアマチュアバンドの活動をして、たまにプロの演奏の仕事をもらう生活でした」
24歳の時、木村カエラの『happiness!!!』のレコーディングに参加した。
「当時組んでいたバンドのメンバーに声をかけてもらったことがきっかけで、レコーディングチームに加わることができました。自分がドラマーとして演奏した作品のなかでは、今も思い出深いというか、代表的な楽曲の一つです」
他にも、フジテレビ系列で放送されていたバラエティー番組『ココリコミラクルタイプ』から生まれたユニット、時給800円の楽曲のレコーディングなどにも参加。しかし、音楽一本で生計を立てるには程遠い状態が続いた。
「20代後半になると、親からも『今のバイト先で社員になれないの?』と言われたりしました。誰もが通る道でしょうね」
何故、音楽で生きていく夢を諦めず、踏みとどまれたのだろうか。編者が質問すると、彼は笑った。
「単純に、しがみついただけですよ。もし、アルバイトとアマチュアバンドの活動しかできない時期が1年くらいあったら、田舎に帰ったり、バイト先の社員になったりしたかもしれません。時々、プロの仕事をもらえていたから、やめるにやめられなかったというか。『ふっきるにはもったいない』という気持ちだったんです」
音楽教室でドラム講師として働きながら、生活を安定させていった。
「2006年に、メーザー・ハウスでも講師をするようになったあたりから、音楽関係以外のアルバイトを減らしていきました。30歳ごろには、今のような『演奏の仕事と講師業で収入を得て生活する』っていう状態を確立することができました」
よりよいアーティスト活動の手伝いをしていけたら
2012年ごろから、シンガーソングライターのライブでのサポート演奏を請け負うことが増えた。
「きっかけは、お世話になっていた先輩ギタリストの紹介で、伊藤さくらさんと知り合ったことです。初めて彼女のサポートをした時は、文化の違いに驚きましたね。特にライブの後、物販に行列ができていたのは衝撃でした。それまで僕が関わっていた、いわゆるアマチュアバンド界隈では、演奏後の物販時間なんて、あってないようなものだったので。さくらさんの現場を見て、お客さんとの距離の近さに感動しました」
22年には、「バンドで学べるドラム教室」として、神奈川県川崎市に『A.B.M.Drums School』を開業。主に初心者を対象に、ギターボーカルと合わせて演奏する独自の指導法で好評を博している。
「どうやったら、もっと生徒さんに楽しんでもらえて、レッスンを続けてもらえるのかを考えるうちに、今のスタイルに行き着きました」
近年は、レコーディングでのボーカルディレクションや、ライブの映像ディレクターなども務めている。
「サポート演奏をするうちに『こういうことができれば、もっとアーティストさんの役に立てるんじゃないか』と思ったんです。本業の方々には敵いませんけど、ちょっとした何でも屋ですね」
多方面で活躍する彼に「5年後、10年後のビジョンはありますか?」と聞いてみた。
「今、とてもバランスがいい状態だと思っています。ドラムを叩いたり、何でも屋として動いたり。レッスンでは『生徒に合わせてギター弾く人』とか、ライブでは『よく喋る人』とか、そういった認識をしてくれていることがありがたいです。この方向で、もっと自分を高めていって、できることを増やしていきたいです」
現状に満足しつつも、向上心は薄れていない。
「今も、演奏するたびに『下手クソ。もうやめちまえ』と自分自身に感じる瞬間がよくあります。というか、そんなことだらけです(笑) 。実際、世の中には、僕より素晴らしいドラマーがたくさんいます。それでも必要としてくれる人がいる限りは、頑張りたいと思っています」
リスペクトする人を尋ねると「ライブの主役を務めている人。アーティストの皆さん全員です」という答えが返ってきた。
「僕が若いころにやっていたアマチュアバンドでは、お客さんが5人も来れば良い方でした。それもほぼボーカルのファンで、僕等バンドメンバーを見に来る人なんていませんでした。自分の名前でお客さんを集めるのって、本当に凄いことです。そういうアーティストさんを支える一人として、よりよいライブや作品を作っていく手伝いをしていきたいです」
今後も、多くの人々が彼のサポートを得て、はばたいていくことだろう。
文:紅葉
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