ギター弾き語りで活動しているシンガーソングライター、ただのケンジ。朴訥とした人柄から生み出される温かい歌詞と音楽性が魅力的な彼の背景と、歌い続ける理由に迫った。
一人の野球少年が『ただのケンジ』になるまで
山形県に生まれたケンジの夢は、プロ野球選手になることだった。野球が大好きで、野球一筋の少年時代を送っていたという。
しかし中学生になると、環境の変化が彼を襲った。野球部の顧問の先生と上手くやれなかっただけでなく、膝と腰を怪我する不幸にも見舞われた。
中学2年生になったケンジは、何よりも大切だった野球を捨てた。
深く落ち込み、自暴自棄になり、学校へ行くのも嫌になった。出席日数を稼ぐため仕方なく、いわゆる『保健室登校』をしはじめた。
そんなある日、保健室の先生が「今、何をしている時が楽しい?」と訊いてきた。「何も楽しくない」と答えたケンジだったが、少し考えて、「テレビから流れてくるコブクロの音楽を聴いたり、鼻歌を歌ったりするのは、楽しいかもしれないな……」と付け加えた。
「じゃあ今は、音楽を好きになるタイミングかもしれないね。ギターを教えてあげるから、弾いてみなよ」。
いきなりギターを手渡されたケンジは目を丸くした。とはいえ、授業には出たくないし、他に何もすることがない。「教えてくれるんだったら、やってみます」。先生の手ほどきによってギターに触れるうち、ケンジは音楽の魅力に取り憑かれていった。

さらなる転機は高校1年生の終わりごろ、2年生を迎える春に訪れた。ケンジの実家のすぐそばで、東日本大震災の被災者のために炊き出しをしたり、音楽を演奏をしたりするイベントが行われたのだ。
すっかり音楽好きになっていたケンジは演奏を聴きに出かけ、なりゆきで出演者の一人と仲良くなった。音楽の趣味が似通っていたため、すぐに意気投合したという。
そのアーティストは、ケンジがギターを弾くことを知ると「じゃあ一緒に路上ライブしない?」。誘われるがまま、ケンジは音楽活動を開始した。
「ギターを教えてくれた保健の先生との出会いも、山形での相方となったアーティストとの出会いも、本当にありがたいものでした。俺は、人に恵まれていると思います」とケンジは語る。
ソロでギターの弾き語りをしたり、相方に演奏やコーラスをしてもらったりして、コブクロやゆずのカバーなどを楽しんだ。さらに『山形を熱くしよう!プロジェクト』を主宰する人物と親しくなり、イベントのスタッフや出演者としても活躍した。
高校卒業後は地元の音楽学校のボーカル科へ進学し、歌や作詞作曲について学んだ。2年間の課程を修了した後は、家庭の事情もあって山形で就職したが、音楽活動は続けた。
2017年には島村楽器がプロデュースするコンテスト『HOT LINE』へ出場。ショップオーディションを勝ち上がり、東北エリアファイナルへ進出した。
他県の代表は全てバンドという状況で、ケンジは奮闘した。しかし、何一つ爪痕を残せなかったという。「もう、めっちゃくちゃ悔しかったですね」。
「山形で一番になっても、東北では何もできなかった」。その想いが彼に火をつけた。「このまま終わりたくない。どうなってもいいから、もっと大きな世界で自分を磨きたい」と上京を決意した。
18年4月1日、東京へ引っ越したケンジ。しかし最初の一年間は、ろくに音楽活動ができなかったという。「ナメてました。食うために仕事して、とにかく東京にしがみつくことで精一杯でした」。
そのまま年が明けてしまったが、「何のために上京したんだ。生きてるだけじゃダメだ」と奮起。19年6月ごろからオープンマイクへ参加しはじめ、現在は中央線沿線を拠点に活動している。
東京で音楽活動を再開するにあたり、ケンジはアーティスト名を考え直すことにした。それまでは本名である『ケンジ』とだけ名乗っていたが、当然ながら、同性同名の人物はたくさんいる。並ぶもののない存在を目指す上では致命的だと気づいた。
自分はこれまでどんな音楽をやってきて、これからどんな歌を歌っていきたいんだろう。自問自答したケンジは、一つの答えにたどり着いた。
「俺は、一般社会でごく普通に生きている人間の一人です。多くの人と同じ目線から、みんなが抱いているような想いを、誰にでも伝わる言葉で、でも自分だけの表現で紡いでいきたいと思いました」。
一般人、つまり『ただの』人間。
そうして彼は、『ただのケンジ』という歌い手になった。
泥臭くも爽やかな歌詞が、沈んだ心を鼓舞してくれる
「俺が一番大切にしているのは、歌詞です」と語るケンジ。「伝えたいメッセージを最も伝わる形にするために、どうするか。前後の流れの作り方や、サビに持ってくる言葉の選び方にこだわっています」。
リスペクトしているアーティストはMr.Childrenだ。「ごく普通の言葉で、普遍的な想いを歌っているのに、どうしてこんなに心に刺さるんだろう。俺もこんな歌を歌いたい、って思いますね」。

今日までに様々なオリジナル楽曲を制作し、15曲ほどのレパートリーがあるケンジ。代表曲は『前に』だ。「死ぬほど頑張ってきたなんて口が裂けたって言えないけど」と前置きしつつ、自分なりに前進しようとする人の姿を肯定する歌詞が印象的な応援歌である。
「地元にいたころ作った曲ですが、少しずつ変えながら歌い続けています。昔から自分の周りには、音楽的に優れていたり、凄かったりする人が沢山いて『俺ってなにもできないな』と思っていたんです」。
『こうなりたい自分』の理想像は描けているのに、近づけない。近づくための行動すらできていない。自分に対する悔しさが溢れていたとき、テレビでアスリートの番組を見たことが、楽曲制作のきっかけになった。
「たしかに俺はプロのアスリートほど頑張れていないかもしれない。だけど、何一つ頑張っていないわけじゃない。この気持ちを歌にしたい、しておかないといけないと思いました」。
子どものころのケンジは完璧主義者だった。1から100まで全部ちゃんとできないといけないと思っていた。しかしその思いは、中学2年生の日、野球への想いとともに壊れた。
その後もしばらく精神的な弱さを引きずっていたが「それでも今、地面を這いながら頑張ってるよ、と伝えたくて作りました」。等身大の思いが詰まった一曲だ。
今後の目標を訊くと「今、一緒にやっている仲間やお客さんを大事にしつつ、その輪を広げていきたいですね」と語ってくれた。
「音楽人である前に、人間としてもっと成長したいです。一期一会の縁を大切にしていった結果、音楽で食べて行けるようになれたらいいな」。

「自分は音楽に救われてきました。今度は、自分が手を差し伸べる側になりたいです」とケンジは言う。「『明日死んでもいい』と思っているような人に、自分の楽曲を聴いてもらえたらいいなと思っています」。
何に対してもやる気が出ない、何を言われても心が動かない。そんな状態の人にも届く歌が歌いたいという。
直近の目標としては「地元にいたころから『前に』を音源化してほしい、という要望をいただいていたんですが、まだ実現できてないんです。早くCDを作りたいですね」。
山形を出立する前、自分の活動のマイルストーンとして、ワンマンライブを開いたこともあるケンジ。もっと実力をつけ、知名度を高められたらアルバムを制作し、レコ発ワンマンライブをやるのが夢だという。
「東京に出て一年と少し経っても、まだ汚れてない、って言うと変ですね。汚れててもいいんですけど、とにかく自分は、心から真っすぐに出している言葉で歌っています」とケンジは語る。
「真っすぐな言葉って突き刺さるものがあると思うんです。どんな壁があったとしても、貫き通すくらい」。本人が『自分の武器』と語る言葉の力の強さは、何を隠そう筆者も体験済みである。
筆者がケンジの歌をはじめて聞いたのは、オープンマイク会場の片隅でPCを開き、様々なアーティストの奏でる音楽をBGMにしながら仕事をしている最中だった。彼の声と言葉は、耳から心へ一直線に飛び込んできた。思わず仕事の手を止めてしまった。そんな歌い手は多くはない。
「俺、声は大きいんですよ。ただ、それを振り回すばっかりでも意味がないので。大事なところで弱めたり、囁いたりして相手を惹き込んでから、ガンッと殴るというか。そういうテクニックを身に着けて、さらに『ただのケンジ』のステージを楽しんでもらえるように頑張ります」。
9月15日には、伊藤蓮(いとう・れん)とのツーマンライブを控えているケンジ。ぜひ足を運び、前へ進み続ける彼の歌声に励まされたい。
text:momiji