レフティーギターが特徴のシンガーソングライター、荻町(おぎまち)カノ。幼いころから音楽に親しんで育った彼女は、高校3年生の時に作詞作曲を開始した。大学ではロックバンド・sabatabby(サバタビー)を結成。映画の主演を務めるなど、さまざまな経験を積んだ。2023年に上京し、社会人として働きながら音楽を続ける彼女の目標とは。
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ライブイベントをきっかけに、本格的な活動を開始
宮城県仙台市出身の荻町カノは、音楽を愛する両親の下で生まれ育った。
「父は普通に働きながら、副業としてギターの講師や修理をやっています。母もギターが弾けて、二人ともバンド活動をしていました。だから、私にも音楽を教えようって気持ちを持っていてくれたみたいです」。
初めてギターに触ったのは、物心ついてまもないころだ。
「小学校に上がる前に、クリスマスプレゼントとして、子供用のミニギターを買ってもらったことを覚えています。でも、当時はあんまり練習しなかったんですよね。ギターって、楽しいと感じるまでに時間がかかるから、飽きちゃったのかな」。
そんな彼女は、小学校1年生からピアノを習い始めた。
「母の友人に、先生を紹介していただいたんです。国立音大で声楽を学んでおられた先生で、最初はクラシックの課題曲を習いました。慣れてきたらJ-popでもアニソンでも、私の好きな曲を弾かせてくださいました」。
また、3年生からは、小学校の吹奏楽団に所属。ホルンを担当した。
「本当はトランペットがやりたかったのですが、人気がありすぎて、楽器が足りなくて。当時は気が弱い子だったので、先生に言われるまま、ホルンになりました」。
中学生になると、通学時間が長くなったためピアノはやめてしまったが、吹奏楽部でホルンを続けた。
「結局、高校2年生で部活を引退するまで、9年くらいホルンを吹きました。大会で結果が出ると嬉しくて、続けるモチベーションになりました」。
中学3年生と高校1年生の時には、ソロコンテストにも挑戦した。
「個人で評価をされると『頑張らなきゃ』って気持ちが強くなるし、良い成績を残せた時の楽しさも倍増しました」。
さらに、同級生とコピーバンドを結成。メンバーそれぞれが好きな楽曲を持ち寄り、ライブハウスなどで演奏した。
「小学生のころ、『けいおん』というアニメに出てくる左利きのベーシストのキャラクターに憧れて、レフティのベースを買ってもらったんです。それから家で、教則本を見ながら練習していました。最初にレフティで弦楽器を触っていたことが、その後、ギターを始める際にもレフティ楽器を選ぶことにつながりました」と笑う。
「せっかくならバンドをやりたいと思っていたら、タイミングよくメンバーが集まりました。両親がバンドをやってたから、『きっと私もいつかバンドをやるだろう』と思っていたかもしれません」

ギター弾き語りを始めたのは、高校2年生の冬のことだ。
「部活をやめてからしばらくして、『一人で完結する音楽がしたい』と思ったんです。ずっと集団で音楽をすることが多かったから、ソロコンに挑戦した時の面白さも心に残っていて、もっと『自分だけを見てもらえる音楽』をやってみたくなりました」。
お年玉を使って、左利き用のギターを購入した。
「たまたま、仙台のセカンドストリートで、左利き用のアコギが1万円で売ってるのを見つけました。レフティーが出回っているのは珍しいので、運が良かったです」。
インターネットで好きな楽曲のコード譜を探し、弾き語りを楽しむようになった。
実は、幼いころの荻町は、人前で歌うことが嫌いだった。
「ピアノを習っていたころ、レッスンの最後に、ソルフェージュの時間がありました。もともと声楽を学んでいらっしゃった先生でもあるし、簡単に『音程通りに歌えるかな?』と、音感を試すレッスンでした」。
その歌声を聞かれることが恥ずかしかった、と振り返る。
「家でレッスンを受けていたから、近くに母がいたんです。先生はまだしも、母に聞かれるのが嫌で、毎回『遠くに行っててほしい』とお願いしていました」。
だが中学生になり、友人とカラオケへ行くようになって、意識が変わった。
「中学生くらいだと、誰も『上手い』とか『下手』とか気にしないんですよね。お互いの好きな曲を『いいよね』って言いながら浸るだけの時間が、とても楽しくて。そのあたりから、人前で歌うことへの抵抗感が薄れていった気がします」。
荻町には、ギター弾き語りシンガーソングライターとして影響を受けたアーティストが数人いる。その一人が、遠藤理子氏だ。
「バンドでライブハウスに出ていたころ、彼女の名前をよく見ていました。私と同じ仙台出身で、同い年のギター弾き語りアーティストです。お年玉でギターを買った後、弾き語りのアーティストのライブを見てみたくなって、彼女が出演する日にライブハウスへ行ったんです」。
軽い気持ちで足を運んだが、衝撃を受ける。
「なんだろうな。圧じゃないですけど、とにかく凄くて。短い時間のはずなのに、長編映画や演劇のような内容の濃さで、その場から一歩も動けなくなってしまいました」。
その日のブッキングライブは、出演者のほとんどがバンドで、弾き語りのアーティストは遠藤氏だけだった。しかし、彼女のパフォーマンスに圧倒された荻町は、「一人で全部に勝っている」と感じた。
「ギター一本、マイク一本で戦える人がいると知りました。ふわふわしたシンガーソングライターのイメージが、一番最初に見に行ったライブで壊れたのは、幸せだったと思います」。

荻町が本格的な音楽活動を始めたきっかけは、2018年、中高生だけでつくるライブイベント・ナキワラ!に出場したことだ。
「私の友達が、イベントの運営に参加していたんです。『今のままだと東北地区の音楽部門の出場者があまり集まらないかもしれないから、よかったら出てみない?』と誘ってくれました」。
音楽部門へエントリーするためには、オリジナル曲が必要だった。
「お年玉で買ったギターで練習を始めてから、半年程度だったと思います。生まれて初めて、作詞作曲に取り組みました。特に勉強はしていないんですけど、それまでの練習で、自分の中に『よく出てくるコード進行のパターン』が蓄積されていました。『この進行が好きだな』っていうのをノートに書いて、頑張ってメロディを思い浮かべました」。
覚束ないながらも、なんとか完成させることができた。
「当時だから歌えたような曲で、今聴くと、『高校生だなぁ』って思います。18歳になったばかりくらいで、いろいろと葛藤してぐちゃぐちゃなんだな、と」。
楽曲のクオリティには自信が持てなかった。人前で弾き語りを披露するのも初めてだった。「どうなるんだろう」と不安でいっぱいのまま、彼女はライブイベントに出場し、オリジナル曲とカバー曲を一曲ずつ歌った。
「ナキワラ!では、県予選、地区予選、全国選考があって、最後まで勝ち残った人はZepp Nagoyaで演奏できます。私は宮城県予選を抜けて、東北地区予選も抜けて、最終的には全国選考まで残ることができました」。
この結果は、大きな自信になった。
「何もかも手探りだったけど、人に伝わるものができた、と思えました。私が音楽活動を始めるうえで、大きく背中を押される出来事でした」。
それから彼女は、ギター弾き語りでライブに出たり、自宅で動画を撮ってSNSに投稿したりするようになった。
「受験生だったので、ライブは月に1本できるかできないかくらいでした。カバー動画を撮って、Twitterに載せて、反響があると達成感を得ていました」。
音楽漬けの学生時代
19年春に山形大学へ入学した荻町は、軽音サークルに所属した。
「サークルでは、きのこ帝国や羊文学、yonige、Hump Backなどのコピーをしていました。同じバンドを好きな人同士で、楽しくやっていました」。
学業はもちろん、弾き語りでの音楽活動とサークル活動を両立させ、月1、2本ほどライブをしていた。
「思い返せば、音楽漬けの青春でしたね。毎日練習をしていました」。
20年には、大学の友人とロックバンド・sabatabby(サバタビー)を結成。ギターボーカルを務めることになった。
「オリジナル曲をちゃんとやるバンドは、sabatabbyが初めてです」。
同年にコロナ禍が始まったが、影響はなかったのだろうか?
「大学2年生からドンピシャでコロナでした。でも私は、『じゃあ昔みたいに動画投稿をしようかな』と思えたというか。もともとSNSでの発信を楽しめていたこともあって、『ライブが出来なくてしんどい』ってことはなかったですね」。
残念に思うこともあったが、すぐに気持ちを切り替えた。
「メンバー全員が学生だったし、授業を頑張りつつ、『できるときにできることをやろう』というマインドでそろっていましたね。まだ形が出来上がっていなかったからこそ、影響も少なくて、軽やかな気持ちでいられたかもしれません」。
21年ごろから、自粛要請の緩和にともなって、バンドと弾き語りの両方でライブ活動を再開。仙台や山形を中心に、東北各県のライブハウスやイベントへ出演した。
すると22年、東北芸術工科大学の卒業制作映画『空は飛べない』への出演依頼が舞い込んだ。
「私と同い年の、大学4年生の方からDMが来たんです。『卒業制作として音楽映画を撮りたいので、主題歌を作ってほしい。できれば主演もしてほしい』と。SNSで私のことを調べてくださって、年齢や活動内容がイメージに近かったみたいです」。
荻町は、迷った末に依頼を引き受けた。
「主題歌のご依頼はぜひお受けしたいと感じた一方で、映画の主演についてはかなり迷いました 。でも今後、こんな話がくることはないだろうな、と思ったんです。将来おばあちゃんになったとき、『私が主演した映画がこの世に存在するんだよ』って話せたら、面白いだろうし」。
22年9月29日には、映画のワンシーンの撮影のために、山形市内のイタリアンレストラン・guraのラウンジホール内にてライブイベントを開催。また、イベントに合わせて、1st EP『ゆめうつつ』を発売した。
「映画の主題歌として『空は飛べない』を書いて、歌って、演技をして。すごく貴重な経験をさせてもらいました。それに、芸大の子たちと縁ができたことは、自分自身の音楽活動にも役立ちました」。
23年2月2日に公開した、sabatabbyの1st Music Video『迷妄ティーンエイジ』は、同大学の学生によって撮影されている。
「映画を撮り終わった後、監督さんが『何か御礼をしたい』と言ってくださったので、『MVを撮ってほしい』と伝えたんです。そこからいろいろ繋がって、一つ下の学年の子たちが撮って、編集してくれました」。
彼らの卒業制作映画への参加は、荻町自身にとっても、学生時代の最後を飾る思い出の一つになった。
代表曲『恋愛寫眞』について
作詞作曲は独学だと語る荻町。「見よう見まねで数をこなしてきました」という彼女に、作品の総数を尋ねると、首を傾げた。
「ちゃんと数えたことがありませんね。作った直後はライブで必ず歌いますが、時が過ぎると、人間は変わっていきます。自分のなかで『その曲を正直に歌えない』と思ったら、お蔵入りして、しばらく寝かせることを繰り返してきました。もっと歳を重ねたら、新しい意味が生まれるかもしれないし」。
楽曲制作の際は、メロディと歌詞を同時に考えている。
「まずコード進行を決めて、ギターを弾きながら、メロディと歌詞を同時に思い浮かべるようにしています。一つの音に一つの単語を入れることの気持ちよさを大事にしているというか、自然にこういう作り方になりました」。
歌詞の内容は、日常から着想を得ることが多い。
「現実って華やかじゃないし、分かりやすくもないですよね。実体験や、思ったことをきっかけに、もうちょっと膨らませて、歌詞として分かりやすくしてみよう、という感じです」。
そんな彼女の代表曲は『恋愛寫眞』だ。
「改名前に作って、一番長く歌っている楽曲です。友人と協力して手作りしたMVも、ぜひ見ていただきたいです」。
ギターの素朴な音色と、切々とした歌声が胸に迫るラブソングだ。
「恋人たちをイメージして作った曲ですが、友人でも、今一つ関係が上手くいかなくなる瞬間ってありますよね。『仲が盛り上がってたころと比べると違うよな』『今は好かれてるか分かんないな』って。私はそういう時、幸せだった時の写真やメッセージアプリの履歴を見返して、『大丈夫大丈夫』と言い聞かせたり、踏みとどまったりすることがあるなと気づいたんです」。
二番の歌詞に「いつかの日のために、今日も笑っていようね」という一節がある。
「『幸せだな』と感じた時に、証拠になるものを残して、大事にしよう。自分を守るために。っていう、キャッチーですが、あんまりポジティブな曲じゃないんです」。
本来なら幸福で満ち足りているはずの瞬間に、心の片隅ではそれを失う日を恐れ、備えている。多くの人に共感される楽曲ではないだろうか。
上京とこれから
23年春に大学を卒業した荻町。進路で迷ったことはないのだろうか。
「高校から大学に上がるときは、弾き語りの活動を始めて一年くらいでした。人並みに勉強していたし、受験して大学へ行くことに対して疑問はありませんでした。そして、せっかく両親に4年制の大学に入れてもらったからには、ちゃんと就職したいと感じていました。まずは就職して、そこからどう音楽をやるか、という考え方だったように思います」
たしかに十数年前までは、ライブハウスや路上で演奏し、CDを手売りすることだけが、誰かに音楽を聴いてもらう手段だった。できるだけ長い時間、リアルな現場で動く必要性があるため、日中に仕事をしながらの活動、とりわけ正社員とアーティストの兼業は難しかった。
しかし現在はインターネットが発達し、いつでも、どこでも音楽を発信することが可能だ。正社員として働いていても、隙間時間に撮った動画をSNSに投稿したり、録り溜めた音源をサブスクリプションで配信したりすれば、多くの人に知ってもらえる。もしかすると、リアルな現場で演奏するより、広い世界へ音楽を届けるチャンスが転がっているかもしれない。
「まったく悩まなかったわけではないんですが、今の私には『仕事をせずに音楽だけをやっていく』ことの意味を見つけられませんでした。仕事をしながらだとできないことって、なんだろう。うーん。ってなったんです」。
また、現代の日本社会では、ほとんどの大人が会社員として働いている。
「多くの人に聞いてもらう音楽を作るなら、自分自身も多数派に所属するというか、会社員として社会人を知る機会が必要だと思いました。特に、新卒で社会人になれるタイミングって、今しかないですから」。
一般企業に就職した彼女は、23年春に上京した。
「東京にも慣れてきましたが、人の多さには、まだ疲れてしまいますね」。
23年7月15日に御茶ノ水KAKADOにてライブを行い、本格的な音楽活動を再開。10月には、アーティスト名を『荻町カノ』と改めた。
「以前は、よくある苗字によくある名前だったので、お客さんに覚えてもらいづらかったり、同姓同名が多すぎて検索に引っかからなかったりしたんです。元々、改名は視野に入れていたのですが、きっかけがありませんでした。上京してフィールドの変わった今が、良いタイミングかなと感じました」。
改名にあたっては、親しい人に相談を重ねた。
「私が一番好きな季節は秋です。春は忙しくて、夏は暑くて、何も覚えてないんですよね。秋は心が動いて、色んなことを感じて、曲もたくさん書ける 季節だなと、最近気づきました。だから秋を象徴する言葉を探して、『荻町』に行きつきました。大事にしていきたい名前です」。
11月28日には、sabatabbyの3rd Single『魔法』を、各スクリプションサービスにて配信リリース。SpotifyやAWAなどのプレイリストにも掲載された。配信開始から約一ヶ月が経った12月27日現在 、全世界での再生回数は7,000回を突破している。
「大学を卒業して、メンバーの生活している場所はバラバラになりました。私は関東に出てきて、他の子は東北に残っていたり、全国転勤の会社に勤めていたりします。それでも、できることをやっていこうって感じです。今はMVを制作中で、2024年のどこかで公開する予定です」。
個人としては、サブスクリプションの解禁を目標にしている。
「今はライブの物販限定で販売しているCDしかないので、私の曲をちゃんと聴いてもらうには、まずライブに来てもらわなきゃいけないって状況です。ライブの頻度も高くないし、様子を見て解禁したいですね」。
5年後、10年後はどんな自分になっていたいですか?と聞いてみた。
「今、やれていないことがいくつかあります。まずはそういう、MVとかサブスクとか、やりたいけどできていないことを、あらかたやり終えたいですね。そうしていつか、自分が弾き語りを始めたころに影響を受けたアーティストと、同じ位置の存在になりたいです」。
実際に影響を受けたアーティストとして、前述の遠藤理子氏や、江野利内氏の名前を挙げる。
「私が彼女たちの音楽に影響を受けたように、誰かの人生の中で『この時期は荻町カノの音楽をよく聴いていたな』って思ってもらえる存在になれたらいいなと思います」。
自分と同じような年齢や、年下の女の子たちに、音楽を届けたいと語る。
「ビッグになりたくないわけじゃないけど、そこが目標じゃないんですよね。結果としてそうなったら嬉しいけど」。
いつか、荻町カノに憧れた少女が、レフティーギターで弾き語りを始める日が来るかもしれない。
文:紅葉 写真:あかさかなつき
INFORMATION
1st EP『ゆめうつつ』を、ライブ会場にて販売中(¥500)
2024.1.5(Fri) AcousticNight vol.470
[会場] Live Bar PENNY LANE(宮城県仙台市青葉区昭和町3-38)
[時間] open 18:00 / start 18:30
[料金] 来場 ¥1,500(+1drink ¥500)
2024.2.23(Fri) Yokohama City Music
[会場] 横浜ビブレniigoひろば(神奈川県横浜市西区南幸2-15)
[料金] 観覧無料
◎荻町カノ公式ページ